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ああ無常

昨日、ニュース番組での一幕。

桜が満開ということで花見をする外国人の様子を映していた。
写真を撮ったり、子供がはしゃぎまわっていた。

そんな映像の後のやりとり。

キャスター「しかし、外国人の方に桜のムジョウカンがわかるんですかね」
解説員「わからないでしょうね」



なるほど。

無情感。


花見という名の宴会をする日本人の姿といったら、それはもう無情。

近隣住民の迷惑も顧みず、酒の匂いをふりまき、大騒ぎ。

私も近所に比較的大きな花見スポットがあるので、
数年振りに覗いてみたが、まぁそれはもう無情感丸出し。
3分で「もういいや」と思って帰ってしまった。



仮にそのキャスターが「無常観」のことを言っていたとすれば、
そもそも、桜に「無常観」などというものはない。

大きな木に豪華に咲き誇る花、花、花。
そこには「華やかさ」「優雅さ」「陽気」はあっても、
「はかなさ」「わびしさ」のようなものはないだろう。

個人的な経験でいえば、たしか京都の二条城だったと思うが、
そこで見た梅の庭園は、無常観のある光景だと思った。

というより、人が多いという時点で無常観なんてものはない。
外国人が花を眺めている様子の方がよっぽど無常である。



そもそも公園のような、人間が手を入れたところに
無常観を求めること自体がおかしな話である。



で、無常って何?

自転車に音楽を

先日、ある地方に行ったところ、私の住んでいる地域では見ない光景を目にした。


「自転車走行中の携帯電話・ヘッドホン禁止」と書かれたプラカードを掲げ、
さも「正義の使者です」と言わんばかりの顔つきで、
狭い交差点で通行人の邪魔になりながら悠然と立つおじいさま。


なんというか、情けない光景だと感じた。
どうせ市で雇っているのだろうから、それはもう税金のムダ使い。


そもそも、自転車走行中のヘッドホン禁止などという条例だか規則が
何の考えもなく施行されていることに腹が立つ。
というのも、もちろん私は音楽を聴きたいからである。



はっきり言って、聴覚と安全運転の間にはほとんど関係がない、と思う。

私は高校生の頃から10年以上音楽を聴きながら自転車を運転しているが、
それなりに交通量の多い地域ではあるが、事故にあったことは一度もない。

危うく事故になりそうなこともあったが、それは単に視覚的な不注意によるもので、
聞こえていれば防げたか、と聞かれたら、100%「NO」である。

周りの音が聞こえていようがいまいが、
交差点や曲がり角での減速・左右確認のような
ごく当たり前の安全運転をしていれば、
少なくとも自分が原因で事故になることは100%あり得ない。

道路上で聴覚から得られる情報なんてほとんどない。
歩行者や自転車じゃ音なんか発しないし、
最近じゃ車だってどんどん静かになってきている。
クラクションとかベルとか鳴らされれば、音楽聴いてたって気づく。
(そもそも鳴らされるような運転はしていないので鳴らす方が悪い)

もし規制を正当化する理由が「より安全にするため」とかいうなら、
自動車運転中のラジオ・音楽はおろか、カーナビすら禁止すべきである。
カーナビの確認は停車中のみ、とすべき。
自転車運転中の音楽なんて、それと同レベルの話。

そう思ってネット上の意見を探してみたところ、
意外や意外、「音楽聴きながら運転は危ない」という意見が多かった。
みんながまともに考えていないのか、自分の認識が違うのか。

だいたい、難聴者は自転車を運転できないのか?


最近は「暴走自転車」なんて言われて問題になっているようだが、
そんなのは音楽聴きながら運転するのとはまったく別の話である。
似たような問題は全部まとめてしまおうというのが悪い風潮だ。

地下鉄のホームの広告でも、音楽聴きながら歩くのは危険、
みたいなことが書いてあったり。いやいや。



結局、諸悪の根源はケータイ見ながら歩いたり自転車乗ったりするヤツ。
そっちは死ぬほど危ない。それと一緒にされたんじゃたまらない。

自転車を運転するときは周りをよく見るなんて当たり前のことで、
そんなこともできないヤツが多いなら、それこそ自転車も免許制でいい。
もちろん、その場合は「音楽聴きながら運転するのは一向に構わない」という前提で。


要するに、物事の本質をちゃんと見極めましょうね、というお話。


まぁこーゆー法律決めてるような輩っていうのは
他人が運転する車にしか乗ってないような連中ばっかりだろうから、
こーゆー問題についてはろくに考えてないんだよね。



当ブログと著者について

当ブログを開設して1年半が経ちますが、
ろくにこのブログのコンセプトを説明していなかったので、
というよりコンセプトがようやく定まってきたので、
改めて自己紹介というか、そんなことをしたいと思います。


私こと弧という人間は、以前5年間ほど別のブログを書いていたのですが、
いろいろ思うところがあり、新しくこのブログを開設しました。

以前書いていたブログでは、割と何でもありという形で、
私の本名や具体的な住所、電話番号といった、
ホントに個人が特定できるような「ザ・個人情報」以外の
あらゆる情報(大学名とか恋愛事情とか)を公開しており、
ブログランキングのサイトなんかにも登録したりして、
とにかく「ブロガー」として、閲覧数を伸ばすことに躍起になってました。

しかし、それもなんとなく節操がないと感じるようになり、
そのブログは閉鎖しよう、ということで持論弧論に至るわけです。



このブログのコンセプトとしては、一言では言いにくいですが、

「弧という人間が考える『世界観』を残しておく」

ということかと思います。


テーマは「世界観」。なので、抽象論がメインです。
それも、私個人が勝手に考えているだけなので、
正しいかどうかは知ったこっちゃありません。
しかも、あくまで「残しておく」ことが目的なので、
読んでもらいたい、とかは二の次に考えています。


だったらチラシの裏にでも書いとけよ、と思われても仕方ないですが、
わざわざブログとして公開しているのは、
このブログを読んでいただくことを通じて、
読者の方の共感を得たり、自らの世界観を見つめ直す機会になれば、
という思いがあるからです。



そのため、このブログにおいては、私の「世界観」以外の
ほとんどの情報について、公開するつもりはありません。
せいぜい「そこそこ若い男」というくらいです。
私のパーソナルな部分で興味を持ってもらいたいわけではないので。
なので、もし以前のブログからの読者の皆様等、
私のパーソナルな情報をご存じであったとしても、
そっと胸の内に秘めておいていただけると幸いです。

そもそも以前のブログからの読者ではない、
このブログからの新規の読者の方っていらっしゃるんだろうか。


もし私へのメッセージ等あれば、コメント(非公開もできます)や
拍手機能をご利用ください。
とはいえ、すべてのメッセージに応えるわけではありませんので、
その点はご了承ください。
(あまりに失礼なことをする方もたまにいらっしゃるので、
 モラルを守った利用をしていただけると幸いです。)


なんつって、アクセスはそこそこあるのにコメントは全然つかないから
言うだけむなしいですね!いいんですけど!

春は別れと出会いの季節

東京大学が9月入学を検討、という話題が世間を賑わせている。


某通信塾なんぞ、もう「今の小学生は9月大学入学を見据えた教育が必要」だとか
広告打ち出してやがった。10年も先の半年の違いなんぞ、関係あるかい。


9月入学という選択肢そのものを議論の場に乗せたこと自体はいいと思う。
たしかに外国と違うというのはいろいろ不都合がありそうではある。




が。


短絡的すぎる。


そもそも、動機が「留学生を増やしたい」だとか。

え?たったそれだけのために?




いや、大学だけが勝手に9月にするのなら、勝手にどうぞと言いたいが。


あらゆる学校を9月入学にしようという流れまであるらしいではないか。

こーゆーところが日本人のダメなところだと思う。



日本の入学式といえば、桜である。

風情だかわびさびだかよくわからないが、そーゆー感覚を無視して、
ただ世界標準に合わせればいいみたいな発想は、ホントに情けない。



私は伝統だの歴史だのというものはかなり嫌いな方ではあるが、
日本人が大切にするべき文化というものはあって然るべきだと思う。

近代における守るべき文化、そのひとつが「卒業・入学シーズンの桜」だと思う。


クソ暑い夏の時期に、汗ダラダラで別れの涙流したり、
新品のランドセルしょったりしたくないでしょ。


日本の文化とか経済とかが発展した大きな理由の1つとして、
「四季」がもたらす繊細な感覚、ってのは絶対にあると思う。


そんなものを無視して国際競争だなんだっていったって、
こんな小国、対抗する間もなく滅んでいくよ。


そもそも、日本が栄えたもう1つの大きな理由に、
島国で培われた身内を大切にする意識みたいなものもあるわけでしょ。

いいじゃん、留学なんかどうだって。ホントに来たい人は来るよ。



まぁそんなわけで、私は断固反対です。変えりゃいいってもんじゃない。




知人から「ゆとり教育の発端は東京大学だ」っていう話を聞いて、
「言い出したからにはそれなりの根拠があったんだ」ということも
(それが真実なのかどうかは知らないが)聞いたけど、
どっちにしても理屈だけは立派でも、ろくなことにならないことって
いっぱいあるんだよ。


てゆーか東大がやるって言い始めたら「うちもうちも」ってなった
大学どもが一番情けないよね。オリジナリティとか威厳とかないのかよ。


自分の頭で考えるってことが大事。



まぁこのご時世、どこの大学出たかなんてクソの役にも立たないけどねwww



なのでどうでもいい話題といえばどうでもいいのではあるが、
お偉い日本人が自分(たち)が大事にしてきたものを壊すのは
どうにも許しがたいものがあるのでね。





入学式が9月になっても、「もう!いやらしい風ね!」のイベントは永遠。

でも往年の名作とかも、全部下の世代からは共感が得られなくなっちゃうんだろうな。



夏服だから、第2ボタンはYシャツのボタンなんだろうなぁ。

それともわざわざ上着着るのかなぁ。地獄だな。




ちなみにタイトルをちょっとしゃれてみたけど、
もうここ2年ほど、春になんてろくに出会っちゃいねえ。正直無関係。

法の下だけは平等

日本国憲法 第14条1項

「すべて国民は、法の下(もと)に平等であつて、人種、信条、性別、
社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」



別に憲法の話をするつもりはない。

が、簡単に「平等」という概念の話をば。


平等には、「形式的平等」と「実質的平等」という概念があるとされている。

「形式的平等」は、機会を平等に与えようという考え方。
例えば、3人で宝石を発掘する場合に、道具はみんな平等に与えて、
あとは見つけた人が全部自分のものにできる、という考え方(に近い)。

「実質的平等」は、結果を平等にしていこうという考え方。
例えば、3人で宝石を発掘する場合に、道具はみんな持ってたり持ってなかったりだけど、
とにかく最後はみんなで同じだけ分け合おう、という考え方(に近い)。


他にも平等の概念はあるのだけど、別に憲法学の話をするつもりはないので。


では何の話がしたいのか。



あるべき社会の姿はどちらなのか? ということ。



共産主義とか社会主義とか資本主義とか、そーゆー話のつもり。
あんまり詳しくないので深堀りはしないけど。



本当に本当の意味での実質的平等が実現できるのであれば、
それがいいようにも思える。

なぜか。

結局、「努力した人間が報われる」というのは才能がある人間の身勝手で、
才能のない人間が血のにじむような努力をしても、
少し本気を出した才能のある人間に簡単に負けてしまうのが世の中である。

もしものすごい性格がいいのにものすごいブスだった場合、
ほとんどの男性は同じくらい性格がいい美人を選んでしまうのである。


そうじゃない、という人間がいるなら、大声で言ってやりたい。

この大嘘つきが!

あるいはド変態である。だってほとんどの男は美人を選ぶもの。



それなら、才能の有無にかかわらず、みんなに同じ結果を与えてあげればいい。
(仮に、それが可能だとして)

人より頑張った人には、それだけの達成感や満足度が得られるよ!





…ムリがある。


純粋な実質的平等というのは、非常に無理がある話なのである。

もちろん、頑張った甲斐がない、ということもあるかもしれない。


それ以上に、「同じ結果」という概念に無理がある。

みんなに100円ずつ配れば、「同じ結果」か?


例えば、小食の人が満腹感を得られるご飯の量では、大食漢の人は満足できない。
それでも、満腹感なんて指標はあいまいすぎるため、
結局お金なり、何らかの代替物でまかなうしかないのである。



それに、ものすごい性格がいい美人であっても、
みんなからちやほやされた挙句、理想が高すぎてなかなか幸せになれず、
逆にものすごいブスでも、みんなからひどい目に遭わされた結果、
たった1人の大切にしてくれる人と一緒になれば本人は幸せかもしれない。



つまり、結果なんかどうなるかわかんないんだから、
とりあえずルール(=法)だけは変な言いがかりで不当な扱いだけはしないようにして、
あとはなるようになるのを見守るようにしましょう、ってのがあるべき国の姿だと思う。


その理屈で言えば、例えば生活保障だとかってのは「優しさ」だけの制度なわけで、
本来もらえるはずのものを職員の不正や怠慢でもらえないというならまだしも、
それを権利だなんだって主張するのは何かがおかしい気がする。

いやまぁ世の中そんなものなのかもしれないけど。





それにしても努力しないで幸せになる方法はないだろうか。

それとも幸せっていうのは努力の結晶以外の何物でもないのだろうか。

わからない。

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