カテゴリ:社会 の記事一覧

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法の下だけは平等

日本国憲法 第14条1項

「すべて国民は、法の下(もと)に平等であつて、人種、信条、性別、
社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」



別に憲法の話をするつもりはない。

が、簡単に「平等」という概念の話をば。


平等には、「形式的平等」と「実質的平等」という概念があるとされている。

「形式的平等」は、機会を平等に与えようという考え方。
例えば、3人で宝石を発掘する場合に、道具はみんな平等に与えて、
あとは見つけた人が全部自分のものにできる、という考え方(に近い)。

「実質的平等」は、結果を平等にしていこうという考え方。
例えば、3人で宝石を発掘する場合に、道具はみんな持ってたり持ってなかったりだけど、
とにかく最後はみんなで同じだけ分け合おう、という考え方(に近い)。


他にも平等の概念はあるのだけど、別に憲法学の話をするつもりはないので。


では何の話がしたいのか。



あるべき社会の姿はどちらなのか? ということ。



共産主義とか社会主義とか資本主義とか、そーゆー話のつもり。
あんまり詳しくないので深堀りはしないけど。



本当に本当の意味での実質的平等が実現できるのであれば、
それがいいようにも思える。

なぜか。

結局、「努力した人間が報われる」というのは才能がある人間の身勝手で、
才能のない人間が血のにじむような努力をしても、
少し本気を出した才能のある人間に簡単に負けてしまうのが世の中である。

もしものすごい性格がいいのにものすごいブスだった場合、
ほとんどの男性は同じくらい性格がいい美人を選んでしまうのである。


そうじゃない、という人間がいるなら、大声で言ってやりたい。

この大嘘つきが!

あるいはド変態である。だってほとんどの男は美人を選ぶもの。



それなら、才能の有無にかかわらず、みんなに同じ結果を与えてあげればいい。
(仮に、それが可能だとして)

人より頑張った人には、それだけの達成感や満足度が得られるよ!





…ムリがある。


純粋な実質的平等というのは、非常に無理がある話なのである。

もちろん、頑張った甲斐がない、ということもあるかもしれない。


それ以上に、「同じ結果」という概念に無理がある。

みんなに100円ずつ配れば、「同じ結果」か?


例えば、小食の人が満腹感を得られるご飯の量では、大食漢の人は満足できない。
それでも、満腹感なんて指標はあいまいすぎるため、
結局お金なり、何らかの代替物でまかなうしかないのである。



それに、ものすごい性格がいい美人であっても、
みんなからちやほやされた挙句、理想が高すぎてなかなか幸せになれず、
逆にものすごいブスでも、みんなからひどい目に遭わされた結果、
たった1人の大切にしてくれる人と一緒になれば本人は幸せかもしれない。



つまり、結果なんかどうなるかわかんないんだから、
とりあえずルール(=法)だけは変な言いがかりで不当な扱いだけはしないようにして、
あとはなるようになるのを見守るようにしましょう、ってのがあるべき国の姿だと思う。


その理屈で言えば、例えば生活保障だとかってのは「優しさ」だけの制度なわけで、
本来もらえるはずのものを職員の不正や怠慢でもらえないというならまだしも、
それを権利だなんだって主張するのは何かがおかしい気がする。

いやまぁ世の中そんなものなのかもしれないけど。





それにしても努力しないで幸せになる方法はないだろうか。

それとも幸せっていうのは努力の結晶以外の何物でもないのだろうか。

わからない。

教育と学問

「教育」と「学問」について考えてみたい。



以前書いていたブログで、「正しい日本語」というものはない、という話を書いた。


これは、「ら抜き言葉」や「全然あり」のような、
一般的には「正しくない」とされている日本語でも、
それが通用するようになれば、「正しくない」ではない、という趣旨である。

つまり「正しくない日本語」というものは存在しないため、
その反対の概念である「正しい日本語」という考え方自体がおかしい、ということである。

とはいえ、一般的に「正しい」と考えられている日本語は存在するわけで、
ただしこれは国家が認めた機関が勝手に「正しい」と決めただけのものである。
それは日本国としては「正しい」のかもしれないが、
日本民族としてはそんなものは「正しさ」でも何でもない。


「正しい日本語」の正体は、そんなものである。

だが、じゃあどうでもいいか、というわけでもない。
ルールはルールである。



本題に戻る。


教育と学問。


教育や学問といっても幅は広いが、あくまでも一般的な学校を中心に考えたい。



そもそも「教育」と「学問」の違いについて、私はこう考えている。


教育:ある分野について熟知する者が、その内容を知らない者に教えること。

学問:ある分野について知らない者が、何らかの手段で学ぶこと。


両者のハッキリとした違いは、誰かのフィルターを通すか否か、ということ。
つまり、教育の場合は、教わる側は教わったとおりに学ばなければならないし、
教わる以上の内容を学ぶこともなく、その必要もない。

こう書くと教育というものが学問に劣るようにも思えるが、そういうことではない。
社会に出る上で、一定のルールに従うことは必要であり、
教育をないがしろにしてはいけない。


そういった意味で、現在の5教科について考えてみたい。
(あくまで私が教わった時期を中心に考えているが、
 たかだか十年程度で劇的に変化しているとも思えないので)


国語:国家が認めた機関が「正しい」と決めた日本語を教えるだけ。
   あとは小説の楽しみ方とか、正直趣味のレベル。

英語:国家のことは知らないが、主に文書上で使われている英語を教えるだけ。
   例えば生徒同士の英会話練習なぞほとんど意味がない。
   (知らない者同士でやっても、間違って覚える可能性が大いにあるため)

社会:言語と数理科学以外の一般常識とされているものを教える。
   にしては地理だの歴史だの、教える内容が偏っている。

理科:ある程度の決めごとはあるものの、目的は人間が決めたルールや
   人間がやってきたことを学ぶことではなく、
   あくまで人間とは離れた宇宙の神秘を学ぶ。
   ただし、あくまでも宇宙上に発生した偶然の世界。

数学:記号という決めごとはあるが、必然の世界。
   その中でも、基本的なルールを教えているにすぎない。


現代教育なんて、せいぜいこんなものである。

そもそも、国語なんて教科がこの並びにあること自体が不思議である。
国語は漢字の読み書きくらいができれば、
あとはどちらかというと音楽、図工や家庭科の並びではないのか。
(別にこれらが不要というわけではなく、教養としては必要だと思うが)


各論を言い始めるとキリがないので、この程度にしておくが。




一方、学問というのは、本来俗世とは乖離したものでなくてはならないと考えている。


どういうことか。

学問というのは、究極の形としては、まったく誰も知り得ないことを、
自分の「思考」する力で解明していくことであると考えている。

また、それは誰かに教えてもらうことでなくても、
偶然知った、というものについては、「思考」の結果ではなく、
学問の概念とは逆に位置づけられるものであると考える。

つまり、最新医学や考古学のように、誰かに教えてもらえないものであっても、
「人体というのは偶然そうなっている」とか「歴史上そうなっていた」という事実を
「発掘」するだけのことである。
「発掘」というのは、やはり偶然ありつくものにすぎない。

そして、偶然知りうるものというのは、結局は俗世に属するものなのである。



そういった意味で、純粋に学問と呼べそうなものは数学だけなのではないか。

他の学問とは違い、必然だけの前提上に成り立ち、
理論だけを純粋に追究していけば、真理に辿り着くのが数学である。
これは、「思考」以外のプロセス、つまり偶然では辿りつけないものである。


出家する、という日本語はなぜか俗世を捨てて仏門に入ることを指すようであるが、
本当に俗世を捨てるのであれば、数学者になるべきであると思う。




とはいえ、俗世においてほとんど役に立たないのもまた数学である。

学問というのは、本来社会のために行うものではないのだ。



「大学」というのは、学問のためにある場所である。

いわば、金持ちのための娯楽といってもいい。



もちろん、大学で学んだ結果、優秀な人材に成長し、
その人材としての性能を社会が優遇するのはあって然るべきだと思う。

しかし、それはあくまで結果論の話。




「大学で社会で使える人間に育てます」だの、
「産学連携」などというのは、ちゃんちゃらおかしい。



とはいっても、社会がそうなってしまっているのは、
そういったニーズが高いから、仕方のないことなんでしょうね。



まぁだから、仮に学費の安い公立大学を出たにもかかわらず、
卒業してから社会にほとんど貢献してない人間がいたって、
それは別に社会のために学費を安くしてもらっていたわけではないのだから、
その人は許されるべきだと思うわけなんですよね!

誰とは言いませんけどね!



じゃあその分ちゃんと学問に没頭してたのかと聞かれるとゴニョゴニョ

厠論

先日、アメトーークにて「トイレの紙様芸人」という回が放送された。

その回が放送される前から、私なりにトイレについて語りたかったのだが、
ブログが下ネタだらけになってしまうわ、
記事を書く前にアメトーークが放送されてしまうわで、
なんとなく書きづらかったわけで。

ただ、更新がこれだけ滞っているとそうも言っていられないので、書くことにする。




ネタがネタなので、食事中の方は読まないでください。

というより、食事中の方は食事をしながらPCなんかいじらないで、
食事や材料を作ってくれた方々に感謝しながら、食事に集中してください。



今回特に語りたいのは、大きい方のことである。


私も以前は、便秘がちな体質をいいことに、外出先で大きい方をすることは
ほとんどなかったのだが、歳をとるほどにその体質が柔和されてしまい、
外で大きい方をすることが普通になってしまった。
その点で、私はトイレ経験値が浅い。
そのため、普段使っているトイレと少し仕様が違うと戸惑ってしまう。



ある日のこと。

移動中に猛烈な腹痛に襲われ、とあるJR駅のトイレを借りた。
工事したばかりでトイレが新しいことを知っている駅だったので、
きっとウォシュレット機能付きのいいトイレだと期待して入った。

しかし、衝撃的なことに、和式しかない。
新しい和式が3機。

普段の自分なら他のトイレを探そうとするのだが、
妊婦ならラマーズ法を始めるくらいの生まれっぷりだったので、
いたしかたなくその和式を使うことにした。

たっぷり生まれた。人生新記録じゃないかくらいの生まれっぷりだった。

どれどれ様子を見てやろうじゃないか、もしあれだったら
ケータイで撮影してやろうじゃないか、くらいの勢いで、立ち上がった。

立ち上がったと思ったら、流れ始めた。


センサー式だった。


センサー式にするくらいならウォシュレット付きの洋式にしろよ・・・!


久々に本気で怒りを覚えた。



この話のポイントとしては、和式便所であることと、センサー付きであること。




和式。


アメトーークにおいても、「もう和式ではできない」と口々に言われていた。
和式の需要というのがわからない。

逆にいえば、JRとしては、「あまり利用してもらいたくない」ので
和式という選択をしたのかもしれない。

それにしても、和式というのは本当に使い勝手が悪い。
するときの姿勢も厳しいし、ズボンが床につきそうになったり、
便器の中に何かを落としそうになったり。

呼び方がよくない。そもそもあれは本当に「和式」なのか。
(Wiki先生に聞いてみたら、一応そのようではあるが。)
「和」とつくだけで何か格調の高さを感じてしまう。
和式便所ごときが「和」を冠していること自体が腹立たしい。
「旧式」「新式」でいいのではないか。
今どき和式を導入するなんて、アナログテレビを入れるようなものである。

JR職員の「ご乗車ありがとうございます」などという薄っぺらい言葉は、
所詮和式便所を導入してしまう程度の気持ちしかこめられていないのだ。


ただ、洋式であればいいというわけでもない。

女性の場合はどうなのか知らないが、私は基本的に男の肉体とかが大嫌いで、
前の男性が素肌で座ったと思うと耐えられず、紙を敷いて、その上に座る。
基本的にはトイレットペーパーを敷くのだが、たまに紙の便座用シートが
備え付けてあるトイレに巡り合うと、その店とか設備には最大限の敬意を払いたくなる。

抗菌のウェットティッシュみたいなもので拭く人もいるだろうけど、
なんとなくそんなレベルでは信用できない。潔癖なつもりはないのだが。
仮に女性しか使ったことないトイレだというのなら、私は喜んで素肌で座る。
(潔癖疑惑を取り除くつもりがただの変態疑惑がつきそうではあるが)




センサー式。

センサーについては、大きい方と小さい方、それぞれに言いたいことがある。


まず、小さい方。女性の方には伝わらないかもしれないが。

基本的には、歓迎である。

男性の場合、立ちションの場合、必ずナニに触れることになる。
ボタン式の場合、皆がナニに触れていない方の手で押せばいいのだが、
もちろんそうとは限らないので、皆がナニに触れた直後に押したボタンを
押さなければいけない状態を回避してくれるのが、センサーである。
最近では、用を足す前にちょっと洗浄してくれるものまである。素晴らしい。

しかし、中には腑に落ちないものがある。

足元にセンサーがあるパターンがある。

何が腑に落ちないかというと、感度が悪い。

先日別のテレビ番組でもやっていたが、どうやらあのセンサーは
黒いものにはなかなか反応しにくいということらしい。

だが、私の履くズボンは黒が多い。反応しない。
何回もセンサーの前で足を振り、それでも反応しないので、
仕方なく裾を少し上げてスネ毛だらけの生足をセンサーに見せつけてやった。

腹が立った。
そのときは1人だったからいいものの、
決して他人には見られたくない光景である。

足元につける意味がわからない。
できるだけ便器に近づいてほしいからとか、そういうこと?
そんなの、し終わった後じゃ意味ねえよ!


もっと問題なのは、大きい方。

JR駅の件は、流し忘れる輩がいるからセンサー式にしたのか、経緯は不明であるが、
センサー式にする理由がまったくわからない。
センサー式ほど使い勝手が悪いものはない。というよりムダである。

小さい方と違って、「流したいタイミング」がある。
紙で拭いたあと、これでよし、というタイミングで、
紙も一緒に流すのが普通だと思う。
それがセンサー式だと、拭こうとして立ち上がった瞬間に流れてしまう。
結局紙も流さなければならないので、水が非常にもったいない。
しかもそれが感度が悪かったりしてなかなか流れなかったりする。イライラする。

何より、私は、自分の作品が見たい。

私だけではないと思う。
クレヨンしんちゃんの作者である故・臼井儀人先生も、
自分をモデルにしたキャラの趣味を自分の作品観察にしていたくらいである。
人は、自分の作品を見ることによって、自分の健康状態を知ることもできる。
場合によっては、ある種の達成感を得ることさえできるのである。

そんな知る権利を奪うのが、センサー式なのである。



ウォシュレットについては、これはもう発明した方に敬意を払うしかない。



結論としては、私の理想とするトイレ像は次のとおりである。

・洋式(ウォシュレット付)
・小用はセンサー式(ただし足元のはNG)、大用は手動式
・紙の便座シートがついている
・トイレットペーパーはダブル(お尻に優しい)
・きれい(男ってなんであんなに汚すんだろうね)

こんなトイレがあるお店であれば、私はそれはもう足繁く通ってしまうかもしれない。



他の競合店との差別化を図るなら、まずはトイレから!



それにしても自動開閉する蓋って何の意味があるの?

3ポイント

ポイントカード的なシステムはそれなりに利用する。

貯めるのが好きとか、まぁそういう感情がなきにしもあらずではあるが、
どちらかというと「貯めれば得なんじゃなくてむしろ貯めないと損」という発想である。

基本的に商売なんてものはどうやったって売り手が得をするようにできている。
つまり、いくら買い手がポイントを貯めようが、売り手は得をするのである。
売り手の得は、買い手の損である。であれば、ちょっとでも売り手の得を減らさねば。
という思考である。なんともケチくさいが。


それは前置きで。以下本題。


とあるポイントカードのオンライン会員登録をしたところ、
ちょいちょいサイトからメールが届くようになった。

基本的にその手のメールは受信しないように設定するのだが、
ポイントがつくようなキャンペーンのお知らせだったりするので、
一応それなりに目は通すことが多い。

その中で、最近よく目にする、気になったメールがあった。


「アンケートにご回答いただくと、もれなく3ポイントをプレゼント!」


1ポイント=1円である。



いやいや。


いくら「一銭を笑う者は一銭に泣く」っつっても、それはないだろう。


そりゃたしかに、1ポイントしか貯まらないような状況でもポイントカード出したりするけど。
それは、流れの中での1作業にすぎないから、出すわけであって。



アンケートの回答っつったら、結構な手間。

その対価が3円。

内職か。


だったらまだ抽選で100ポイントとかの方がモチベーションあがるわ。
むしろ対価がない方がまだボランティア答えてやろうかって気になる。
3ポイントって完全にナメられてる。ふかわじゃあるまいし。


そんな風にとったアンケートなんて、まともに回答されてると思えないんだが。
それともそこから商売を広げていく手口だろうか。だったらなおさらやらんわ。



最近よく見かけるのは、ティッシュ配りとして2人が立ってるんだけども、
2人でずっとくっちゃべってて、ろくに配りもしないキャバクラかなんかの店員。


広告ってコストがかかるのはわかるけど、効果との因果関係が見えづらい分、
明らかにムダなコストをかけててもそれすら気づかないことが多いっていうのが怖い。



それにしたって、もう少しちゃんと考えればいいのに。




例えば、このブログに貼ってある拍手ボタンだって、何の見返りがなくても、
作者の励みになれば、と思ってくれる人がいればみんな押してくれるわけですよ。

いや、このブログの拍手ボタンが全然押してもらえてないのは
記事が面白くないからだってのはわかってますよ。
面白ければみんな押すものね。いっぱい押されてるブログ知ってますし。ええ。


このアンケートメールでも、そーゆー精神に訴えかけようという気持ちが欲しいよね。
なんか気の利いた一言を入れるでもいいし。
ポイントなんかなくても「エロ画像プレゼント!」とかでもいいし。





よくねーよ。

お祭り

ちょっと前の話になりますが、なでしこJAPAN優勝。

残念ながら私がサッカーに興味を持つことはほとんどないので、
今回もほとんどスルーだったんですが、
1つだけ関連して気になるニュースがありました。


蓮舫さんがTwitterで「なでしこ優勝!すごいです」的なことを書いたところ、
スポーツ基金を仕分けしたくせに何言ってんだ、と炎上したという事件。


バカな日本人って何でこんなに多いんですかね。


私は、「日本人がバカ」と言っているわけではないです。「バカが多い」と言ってるんです。


なんでプロの選手がスポーツするのに税金あげないといけないんですかね?
そもそも事業仕分けって税金をどう使うかっていうことだってわかって言ってるんですかね?
だいたいにしてスポーツ基金となでしこメンバーは本来から関係ないんじゃないですかね?
仮に関係あっても、税金使わないと優勝できないような競技を頑張る必要があるんですかね?
プロ選手がトレーニングに使う金で救える人たちとかいっぱいいるでしょう?
そんなにスポーツ選手応援したいなら、自腹で勝手に支援してくださいよ?


だいたい、すごいことをすごいって言って、何が悪いんですか。

環境が完璧な状態より、何もないところから優勝する方がかっこいいじゃないですか。



まぁよくよく考えれば、こーゆーのでイチャモンつける人間っていうのは、
元々蓮舫さんのことが根本的に気に入らないっていうだけなんですよね。



かく言う私も、ネット上で流れに便乗して騒ぎを大きくする輩が
根本的に気に入らないだけなんですが。人のこと言えないです。




書いてみてボツにしようかと思ったけど、更新も少ないので一応載せます。
成績が悪いのでブログ基金をもらいたい。(使い道ないけど)

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