スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Comment (-)

教育と学問

「教育」と「学問」について考えてみたい。



以前書いていたブログで、「正しい日本語」というものはない、という話を書いた。


これは、「ら抜き言葉」や「全然あり」のような、
一般的には「正しくない」とされている日本語でも、
それが通用するようになれば、「正しくない」ではない、という趣旨である。

つまり「正しくない日本語」というものは存在しないため、
その反対の概念である「正しい日本語」という考え方自体がおかしい、ということである。

とはいえ、一般的に「正しい」と考えられている日本語は存在するわけで、
ただしこれは国家が認めた機関が勝手に「正しい」と決めただけのものである。
それは日本国としては「正しい」のかもしれないが、
日本民族としてはそんなものは「正しさ」でも何でもない。


「正しい日本語」の正体は、そんなものである。

だが、じゃあどうでもいいか、というわけでもない。
ルールはルールである。



本題に戻る。


教育と学問。


教育や学問といっても幅は広いが、あくまでも一般的な学校を中心に考えたい。



そもそも「教育」と「学問」の違いについて、私はこう考えている。


教育:ある分野について熟知する者が、その内容を知らない者に教えること。

学問:ある分野について知らない者が、何らかの手段で学ぶこと。


両者のハッキリとした違いは、誰かのフィルターを通すか否か、ということ。
つまり、教育の場合は、教わる側は教わったとおりに学ばなければならないし、
教わる以上の内容を学ぶこともなく、その必要もない。

こう書くと教育というものが学問に劣るようにも思えるが、そういうことではない。
社会に出る上で、一定のルールに従うことは必要であり、
教育をないがしろにしてはいけない。


そういった意味で、現在の5教科について考えてみたい。
(あくまで私が教わった時期を中心に考えているが、
 たかだか十年程度で劇的に変化しているとも思えないので)


国語:国家が認めた機関が「正しい」と決めた日本語を教えるだけ。
   あとは小説の楽しみ方とか、正直趣味のレベル。

英語:国家のことは知らないが、主に文書上で使われている英語を教えるだけ。
   例えば生徒同士の英会話練習なぞほとんど意味がない。
   (知らない者同士でやっても、間違って覚える可能性が大いにあるため)

社会:言語と数理科学以外の一般常識とされているものを教える。
   にしては地理だの歴史だの、教える内容が偏っている。

理科:ある程度の決めごとはあるものの、目的は人間が決めたルールや
   人間がやってきたことを学ぶことではなく、
   あくまで人間とは離れた宇宙の神秘を学ぶ。
   ただし、あくまでも宇宙上に発生した偶然の世界。

数学:記号という決めごとはあるが、必然の世界。
   その中でも、基本的なルールを教えているにすぎない。


現代教育なんて、せいぜいこんなものである。

そもそも、国語なんて教科がこの並びにあること自体が不思議である。
国語は漢字の読み書きくらいができれば、
あとはどちらかというと音楽、図工や家庭科の並びではないのか。
(別にこれらが不要というわけではなく、教養としては必要だと思うが)


各論を言い始めるとキリがないので、この程度にしておくが。




一方、学問というのは、本来俗世とは乖離したものでなくてはならないと考えている。


どういうことか。

学問というのは、究極の形としては、まったく誰も知り得ないことを、
自分の「思考」する力で解明していくことであると考えている。

また、それは誰かに教えてもらうことでなくても、
偶然知った、というものについては、「思考」の結果ではなく、
学問の概念とは逆に位置づけられるものであると考える。

つまり、最新医学や考古学のように、誰かに教えてもらえないものであっても、
「人体というのは偶然そうなっている」とか「歴史上そうなっていた」という事実を
「発掘」するだけのことである。
「発掘」というのは、やはり偶然ありつくものにすぎない。

そして、偶然知りうるものというのは、結局は俗世に属するものなのである。



そういった意味で、純粋に学問と呼べそうなものは数学だけなのではないか。

他の学問とは違い、必然だけの前提上に成り立ち、
理論だけを純粋に追究していけば、真理に辿り着くのが数学である。
これは、「思考」以外のプロセス、つまり偶然では辿りつけないものである。


出家する、という日本語はなぜか俗世を捨てて仏門に入ることを指すようであるが、
本当に俗世を捨てるのであれば、数学者になるべきであると思う。




とはいえ、俗世においてほとんど役に立たないのもまた数学である。

学問というのは、本来社会のために行うものではないのだ。



「大学」というのは、学問のためにある場所である。

いわば、金持ちのための娯楽といってもいい。



もちろん、大学で学んだ結果、優秀な人材に成長し、
その人材としての性能を社会が優遇するのはあって然るべきだと思う。

しかし、それはあくまで結果論の話。




「大学で社会で使える人間に育てます」だの、
「産学連携」などというのは、ちゃんちゃらおかしい。



とはいっても、社会がそうなってしまっているのは、
そういったニーズが高いから、仕方のないことなんでしょうね。



まぁだから、仮に学費の安い公立大学を出たにもかかわらず、
卒業してから社会にほとんど貢献してない人間がいたって、
それは別に社会のために学費を安くしてもらっていたわけではないのだから、
その人は許されるべきだと思うわけなんですよね!

誰とは言いませんけどね!



じゃあその分ちゃんと学問に没頭してたのかと聞かれるとゴニョゴニョ

スポンサーサイト

管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。