スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Comment (-)

メダルを噛む

ソチオリンピック開催中ということで、
今少し話題になっているJOCによる「メダルかじり」禁止令について。

どっかの天皇家の血筋だかなんだかって人が「下品だから噛むな」とか、
元アスリートが「好きにやらせてあげればいいじゃないか」とか、
まぁ議論が盛り上がってるのかどうかよくわからないけど。


要はね、メダルが誰のものかってことですよ。

とった人、個人のものでしょ?確か。


だったら、噛もうが何しようが、その人の自由じゃない。


噛むのも自由。

あげるのも自由。

捨てるのも自由。

どれだけ跳ねるかなーって川に水平に投げてみるのも自由。

振り子にして催眠術かけるのも自由。

タバコを貫通させる超能力を披露するのも自由。

クネッって曲げて「これがメンタリズムです」って言い張るのも自由。

周りにチョコをコーティングして、
知らない人に「はい、メダルチョコ!」って食べさせてみて、ガキッってなって、
「実はホンモノでしたー」ってドッキリしかけるのも自由。

顔面センターがクビになってぱみゅぱみゅがCMやってるのはGU。


何やっても自由なんですよ。


ただし、この議論でひっかかるのが、オリンピック選手が「国の代表」っていうところ。

そもそも私は国がオリンピック用に選手を強化したりする送迎したりすることに
血税を使うこと自体が全くもって大反対
(招致はまた別問題)なんですが、
それはさておき、国という組織が血税を費やして送り出している選手である以上、
スポンサーである国民に対して喧嘩を売るようなマネはしちゃいけないと思うんですね。

例えば「もう引退するからサポートなんかいらねぇよ」っていう選手はいいですけど。
「一応今後国会議員目指すからこれからもよろしくねキャピ」っていう場合はダメですけど。


じゃあ、果たしてメダルを噛むという行為が、日本人にとって不快なのか。

そもそも、この行為自体、どっかの国の人が初めて、いろんな国の人がマネしてること。

今や世界中のメダリストがやっている行為に対して、日本人だけが不快に感じているのか。


実態はわからないけれど、たぶん世界では特に気にしてないし、
かわいいとかかっこいいとか思われてるからみんなやってるんじゃないの?


もちろん、日本人にはわからない、世界の「あたりまえ」ってのもいっぱい存在するとは思う。

NIPPONじゃなくてJAPANって呼ぶとか。

カリフォルニアロールとか。

GREEN TEAに砂糖を入れるとか。

「赤いスイートピー」のサビの「I will follow you」の発音だけがやたらいい帰国子女とか。


そういったものまで日本人に受け入れろったって、そりゃ無理かもわからないけど。


元々、メダルが本物かどうか確かめるために始めたんでしょ?(本当かどうか知らないけど)
それが、マスコミが写真撮影するのにちょうどいいからって普及していったって話で。
確かめたいなら勝手に確かめさせてあげればいいじゃない。

もっとも、中国製だったら農薬とか混じってそうでかじれないけど(って日本もか!)
ロシア製だったら放射能とか検出されそ(以下同文)



ま、要するに自己責任でお好きにどうぞって話で、
少なくとも禁止令出すようなことじゃないよね、ということ。



私がメダルもらったら、そうだなー、まずなくすのがいちばんこわいから、
まずウラに名前と学年と組と出席番号書いてー、あと電話番号かいてー、
それで合コン行って、気になる相手に「これオレの連絡先☆」って渡すかな!



ガンバレ日本人選手。(なんだこの心のこもってなさ)

スポンサーサイト

自殺とマスコミ

定期的に、未成年が自殺することによってマスコミが騒ぐ風潮があるようで。


私としては、自殺という行為自体がいいこととも悪いこととも思わない。

ヒトという動物が、自分に与えられた生命を自ら放棄する。
その行為自体、完全に自由なものであり、価値をつけること自体が無意味である。

だから、死にたいヤツは勝手に死ねばいいとも思っている。
死んじゃダメ、と気軽に言えるほど責任も持てない。


とはいえ、気分のいいものではない。


特に、冒頭で述べた風潮には一種の恐怖感さえ覚える。


よくマスコミは「どうして自殺を防げなかったのか」というような表現をするが、
私からすれば、マスコミがそんな風にして取り上げるから、
いつまで経ってもこういった風潮がなくならないのではないか、と思ってしまう。
タマゴが先かニワトリが先か、というようなカンジではあるが。


未成年というのは中途半端に打算的で、
「自殺をすれば自分をこんな目に合わせたヤツを苦しめられる」
というような浅はかな考えで自殺しようという思いが、おそらく少しはあると思う。
マスコミという巨大な援助攻撃があれば、その破壊力はなおさらである。

つまり、自殺を手段として考えていやしないか、ということ。

あまりにも巨大な武器を簡単に手に入れられるという錯覚のせいで、
自分が死んだらそんなことだって意味がない、という事実を見失ってはいないか。



例えばある子供が自殺をすると、
いじめをしていた周りの生徒が悪いだの、体罰を加えていた教師が悪いだの、
それに気づかなかった親が悪いだの、すぐ犯人捜しをしたがる。

そうではない。犯人などいない。犯人は自殺した本人自身だ。

環境がそうさせたというのなら、世の中の犯罪者はみんな環境のせいだ。


どこかの校長だか教育委員会だかが、
「自殺といじめの因果関係はない」と言って総スカンを食らっていたが、
私としては間違っていないと思う。

自殺は自殺、いじめはいじめである。

いじめが悪いというのなら、それは改善しなければならないだろう。
ただそれは、自殺したから、ではない。
いじめが存在するからである。
自殺してようがしてまいが、悪いというなら改善しなければならない。

決して自殺を手段やきっかけにしてはいけない。

それこそが、本当に自殺を防止する方法なのではないか。



まぁ、平和ボケしてくると、
そもそも自然の摂理っていうのは競争社会の上に成り立ってるっていう大前提を忘れて、
ちょっとでも競争に負けそうになるとすぐリタイアしたくなっちゃうんだろうね。

競争のない社会なんて存在しやしないのに。


今こそ年賀状

新年明けまして。


年賀状をはじめとする、対面でもなく、広告のように一方的でもない
「年始の挨拶」というものが一体何の意味があるのか。


普段交流がある人と、気分を一新する意味。
って意味あるの?

普段交流がない人と、年1回くらい交流する機会としての意味。
本当に?それって交流になってる?1往復で終わってない?


という疑問はさておき、問題はその方法。


私なんかは年賀状というものが当たり前ではなくなってしまった世代なので、
今年もハガキでもらった年賀状など数えるほどでしかなかったのだけれど。

周りがみんなそうだから、という理由で自分からも年賀状は出さなくなってしまった。


ではどうしているかといえば、自分からは何もしていない。

なぜか。


年始の挨拶の必要性という疑問もそうだが、ツールが不安定である。

年賀状の次に一般的になったツールといえばケータイメールであったと感じているが、
ケータイ会社はメールを控えてほしいと言い出す始末。

じゃあどうするかといえば、みんないろんな方法で挨拶をしてくる始末。

PCメールだの、Facebookだの、LINEだの・・・結局ケータイメールの人も。


年賀状において、プリンタを使って省力化されていることへの非難というのは
つきまとっている問題の1つではあると思うが、
こうも様々なツールでアプローチされると、
それぞれに対応しなければならないことに対して疲弊してしまう。
(だったら自分から先手を打ってしまえばいい、というのは置いておいて)



そう考えると、年賀状というのは、ツールとして最も優れているように思えてしまう。
画一的であって、個性がにじみ出て、形として残るものである。


何より、他のツールはすべて電子媒体というのが味気なさを感じる。

年始の挨拶なんて、言ってしまえばあってもなくてもいいようなものなのだから、
わざわざやるくらいだったら、少しでも心に残るようなものがいいのではないか。



そんなわけで、近いうちに年賀状文化が見直されてもいいと思うのだけれど、
こればっかりは時代の流れなのでなんとも。



どうでもいいけど、「おっぱっぴー」って新年っぽいよね。

腰パン

久々に「腰パン」をしている人を見た。


一応説明すると、
腰パンとは、腰の下までパンツ(ズボン的な意味の方)をずり下げている
ファッション(?)のことをいう、らしい。


物は言いようで、あれは少なくとも「腰」でも「パン」でもない気がする。
ただの「ズボンずり下げ野郎」である。
「腰パン」って、ある意味当たり前のことだよね。まぁそれはおいといて。


あれをかっこいいと思う感覚がわからない。


だって、パンツ丸見えだよ?男のパンツだよ?誰も見たくないでしょ?
足を短く見せるだけじゃないの?


その人も、しょっちゅうズボンが思ったよりも下がっちゃってるから、
何度もたくしあげてたし。だったらちゃんと穿けばいいのに。



腰パンっていうのはあれか、女性でいうルーズソックス的なものか。

でもルーズソックス履いていいのは女子高生までだよね!




「見せパン」の議論は…もういいか。


何のための法律か

次長課長河本の母親生活保護不正受給問題。

思った以上に盛り上がっちゃってて、今さらコメントもしづらいところはあるのだけど。


あくまで「モラル」という点でいえば、河本さん側は責められても仕方のない話。



が、この問題の本質は、もちろん他のところにある。

そもそも不正受給がまかりとおっているという実態。




いろいろな意見が飛び交っている。



きちんとチェックしなかった地方公務員が悪いという意見も見かけた。


果たして本当にそうなのか?

本当にチェックするためのプロセスはキチンと整備されていたのか?


日本はあくまでも「三権分立」ということになっている。



その点で言うと、地方公務員は「行政」である。

「行政」は「立法」がつくった「法」に従って粛々と実務を行うだけである。

仮に受給資格をチェックするプロセスが事細かに定められていて、
それをサボっていたというのなら「行政」側にも問題はあるだろうが、
チェックプロセスがざっくりした内容でしか定められておらず、
その範囲内に限ってチェックしていたのであれば、どうか。

人はそれを「お役所仕事」と言うが、決してそれが問題かと言われれば、
必ずしもそうとはいえない。

マニュアル化社会において、マニュアルから逸脱した行為というのは、
場合によっては「サービス」と言われるが、
それが「品質の悪化」につながることも十分にありうる。

ましてや「行政」担当者の給料は税金から支払われるのだから、
「お役所仕事」以外の仕事をすることで仕事が増えてしまうのであれば、
それは容易に看過してよい話ではない。

つまり、「行政」を悪者にするのはおかしい。



法の抜け道を姑息に見つけたとかいうならまだしも、
黙っているだけで不正受給がまかりとおってしまうような制度だとすれば、
悪いのはどう考えても「立法」である。


なので、国会議員は自分の仕事が不十分であったことを十分に反省すべきである。

制度なんて、作った側の人間が従う側の人間より詳しいのは当たり前のこと。

自分たちが作った制度が不十分であることを見過ごしていた分際で、
その制度を少しよくわからずに使ったからといってその人間を責めるのは
筋違い以外の何物でもない。



生活保護の事実関係をあまり把握しきれずに書いているので
少しおかしな点はあるかもしれないが、原理原則からすればこういう話ではないのか?


むしろ、国会議員にこんな余計な仕事をすることを許している憲法をよしとしている
国民自体に責任があるといえばそうかもしれないが、
そこまで話を大きくするともうわけがわからなくなるので、ここまで。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。